『公募ガイド』を見ていたら、詩人伊藤比呂美のインタビューが載っていた。タイトルは「エッセイも詩も、すべてはコミュニケーション」である。詩であるか、エッセイであるかというジャンルの違いに、こだわらない伊藤氏の考えが集約されている。 僕が大学生だった1980年代には、早稲田大学に「文学研究会」というサークルがあった。秋の学園祭「早稲田祭」は、当時は一週間に及ぶ大イベントだった。政経学部のラウンジを借り切って、喫茶店と講演会場を設定した。作家の森敦、中上健次、評論家の柄谷行人、宗教..

『公募ガイド』を見ていたら、詩人伊藤比呂美のインタビューが載っていた。タイトルは「エッセイも詩も、すべてはコミュニケーション」である。詩であるか、エッセイであるかというジャンルの違いに、こだわらない伊藤氏の考えが集約されている。
 僕が大学生だった1980年代には、早稲田大学に「文学研究会」というサークルがあった。秋の学園祭「早稲田祭」は、当時は一週間に及ぶ大イベントだった。政経学部のラウンジを借り切って、喫茶店と講演会場を設定した。作家の森敦、中上健次、評論家の柄谷行人、宗教学者の中沢新一、作曲家の坂本龍一ら、錚々たる文化人に講演を頼んだものだが、伊藤氏をお呼びして、詩について語っていただいたこともあった。
 伊藤氏の詩には女性の性に関する表現があり、一部の層には抵抗感があったようだが、事実を卑しめて書いてはならないというのが、氏の姿勢である。また、自分のこと以外は書かないというのも、示唆的な言葉だと思った。知識を元にしてフィクションで、作品らしく書くことはできても、そこには魂が感じられない。現実とは異なっていても、少なくとも心の中では深く共感できること以外は、書いてはならないということだ。
 また、エッセイを書くときのコツとして、「私は」という言葉を書くべきだという点を、伊藤氏は掲げている。それによって、書き手の視点が定まり、客観的に書けるというのだ。短い文章で自己表出するエッセイにあっては、個性を前面に出すための身構えが、「私は」という名乗りなのだろう。主語をなるべく省略し、書き手と読み手の「同化」を図る小説とは大きく異なる点である。
 つまり、エッセイにおいては、文を書く際に自己表出が試みられるが、小説においては、自己表出の試みは前段階の下書きで行われ、本文を書く時点では、すでに加工された言葉が綴られるのである。


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