物語の山場は、兄一郎との語りを綴ったHの書簡によって構成されている。一郎はHに内面の苦しみを明かす。冷淡な態度しか示さない妻直を、一郎は何度も殴るのだが、妻がこちらの思うように動かず、怒りを示さないことで、優位を誇っているとまで感じてしまうと。 そこで、Hはマホメットの話をする。山に命じても山が動かないので、マホメットは自分で山の方へ歩いていった。山は神の比喩である。自身の思うように動かぬ対象は神である。Hは神を信じれば、自身の思うようにならないことに思い悩まなくなると諭す..

 物語の山場は、兄一郎との語りを綴ったHの書簡によって構成されている。一郎はHに内面の苦しみを明かす。冷淡な態度しか示さない妻直を、一郎は何度も殴るのだが、妻がこちらの思うように動かず、怒りを示さないことで、優位を誇っているとまで感じてしまうと。
 そこで、Hはマホメットの話をする。山に命じても山が動かないので、マホメットは自分で山の方へ歩いていった。山は神の比喩である。自身の思うように動かぬ対象は神である。Hは神を信じれば、自身の思うようにならないことに思い悩まなくなると諭す。しかし、一郎はHが心底では神を信じていないことを見抜き、Hの顔を叩く。何をするんだとHが怒ったことで、一郎はHの欺瞞を見抜いてしまう。
 自分が絶対だという場合、自身は有限な存在ではない。有限な自身は消えて、絶対者と一体になった境地を表すはずである。目の前の花を所有するというのは、対象である花に所有されることでもある。生身の人間を見ていても、そうした境地には至らないが、ススキに群がる小さな蟹を見つめているとき、無心になって目に見える物と自身が一体になる。それが一郎の理想としてきた境地なのだということが分かる。
 漱石を長年苦しめてきた悩みが、こうした形で作品の中で表現されている。思うように周囲が動かぬために、ノイローゼに陥って命取りの胃潰瘍にかかった漱石の悩みが。それなら神を信じればいいのだが、神は信じられない。それが「則天去私」という東洋的な境地に、漱石を赴かせたのだろう。
 自分が知っていることを、作品に書いていてもしかたがない。分からないからこそ書くんだということを『行人』は教えてくれた。長編を書く際の心構えは、まずそこにあるのだろう。


「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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