八十歳を過ぎた頃、祖母は近所の糸屋に買い物に出かけ、道に迷ってしまった。分からなければ、人に聞けばいいのに、自負心がそれを許さない。たしか、次の角で曲がればうちに戻れるはずだ。日はだんだん西に傾いてくる。早くうちに帰らなければ。急ぎ足で歩く祖母の姿は、まさか迷っているとは見えなかったのだろう。 電話を受けて、伯父や伯母とともに、父も捜しに行った。ある時は六郷川を渡って蒲田に、ある時は鶴見の先まで歩いていった。日が暮れてしまい、店先でうずくまっているところを、助けられてことも..

 八十歳を過ぎた頃、祖母は近所の糸屋に買い物に出かけ、道に迷ってしまった。分からなければ、人に聞けばいいのに、自負心がそれを許さない。たしか、次の角で曲がればうちに戻れるはずだ。日はだんだん西に傾いてくる。早くうちに帰らなければ。急ぎ足で歩く祖母の姿は、まさか迷っているとは見えなかったのだろう。
 電話を受けて、伯父や伯母とともに、父も捜しに行った。ある時は六郷川を渡って蒲田に、ある時は鶴見の先まで歩いていった。日が暮れてしまい、店先でうずくまっているところを、助けられてこともあった。夜になって街灯がともるようになって、ようやく見つけた父に「迎えに来てくれたのかい」と、うれしそうな顔でほほ笑んでいた。
 そのうち、祖母は自分が生まれた故郷、富士市吉原の実家に帰りたがるようになった。親兄弟もすべて亡くなっていたのに。部屋でお茶を飲み終えると、突然、座蒲団を抱えて、「そろそろおいとましないと」と言い出した。
「母さんのうちはここだろ」と父が言っても、祖母は納得しようとしない。しかたなく、祖母の手を引いて歩いていくと、「もう少しで海が見えるはずだ」と祖母は言い張った。実家の先には松原があり、その先には砂浜が広がっていた。生まれてはじめて見た海が、祖母にとっては原風景だったのだ。(つづく)


「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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