名作の冒頭は、国語の参考書などで挙げられるから、たとえまだ読んでいなくても、覚えていたりする。『源氏物語』や『平家物語』『徒然草』などの冒頭を、中高生のときに覚えてしまった人も多いだろう。 作家にとって、冒頭の一文は重要である。それによって、作品の方向付けがされてしまうからだ。読者の方も、これから展開する作品世界への期待を抱くことになる。 文学を日本語学で分析するのが、表現研究の分野である。古くは時枝誠記が『文章研究序説』の中で、冒頭の表現を「全体の輪廓」「作者の口上」「全..

 名作の冒頭は、国語の参考書などで挙げられるから、たとえまだ読んでいなくても、覚えていたりする。『源氏物語』や『平家物語』『徒然草』などの冒頭を、中高生のときに覚えてしまった人も多いだろう。
 作家にとって、冒頭の一文は重要である。それによって、作品の方向付けがされてしまうからだ。読者の方も、これから展開する作品世界への期待を抱くことになる。
 文学を日本語学で分析するのが、表現研究の分野である。古くは時枝誠記が『文章研究序説』の中で、冒頭の表現を「全体の輪廓」「作者の口上」「全体の要旨」「作品展開の種子或は前提となる事柄の提示」「作者の主題の表白」に分類し、冒頭のない文章として夏目漱石の『虞美人草』の例を挙げている。
 半沢氏の『最後の一文』は、近現代の日本の小説を資料として、最後の一文について分析した研究である。ただ、最後の一文だけ取り出したのでは不十分なので、冒頭との関係から最後の一文の意味を説き明かそうとしている。
 本書を読んで感じたことは、最後の一文は作品の内容と不可分であるということ、冒頭の一文との照応が認められる場合と、形の上では無関係に見える場合があるということである。作品の内容と不可分であるのは、冒頭から始まる作品世界が、登場人物の意識の変化を表し、必然的に最後の一文につながる場合があるからだ。その一方で、作品の内容とは、直接関係がなかったり、純文学のタブーを冒す形で、後日譚を加えてしまう場合もある。
 さらに、推敲を重ねることで、初出と定稿の間では、最後の一文が変わってしまうことがある。芥川龍之介の『羅生門』では、「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでいた」という初出が、「下人の行方は、誰も知らない」と改められたことで、下人の後日譚が削られ、読者に想像する余地が残された。
 それに対して、井伏鱒二の『山椒魚』では、「今でもべつにお前のことをおこっていないんだ」という蛙の言葉で終わっていたのが、「けれど彼等は、今年の夏はお互いに黙り込んで、そしてお互いに自分の歎息が相手に聞こえないように注意したのである」に改められてしまった。初めて読んだときの、山椒魚と蛙の和解のイメージが崩され、困惑した読者も少なくないだろう。作者が施した推敲に、読者が違和感を抱いてしまう場合である。最後の一文の必然性が、初稿を読んだ読者と、改稿した作者の間で乖離してしまうこともあるということだ。
 半沢氏の『最後の一文』は、表現を研究する者や作品を愛読する読者だけでなく、実作する作家にも、創作する上でのヒントを与えてくれるだろう。


「青空文庫」の作家、高野敦志の世界
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